コイツに抱きしめられる度に、俺は自分の過ちを、愚かさを提示されているような気がしてならない。
愛している、と、形の整ったその唇が囁く度に、くらくらと眩暈のような絶望に気がふれそうになる。
やめろ。
俺は正しくなんかない。
お前に愛おしく思われて良いような、人間じゃない。
お前が触れて良いような、その腕に縋っても良いような、人間では、無いのに。
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事務所の応接室。開けた窓から入る風が少し肌寒く感じる季節。そんな日の夜は、月が殊更綺麗で、眩しくて。
それを美しいと感じる反面、嗚呼、月は、月光は同じような雰囲気だ、とあの男を思い出してしまった。
自分の思考にどきりとして、そういえば当の本人は如何したのかと記憶を手繰る。今日は月末ということもあって、事務仕事に追われて、何時にもまして戯言すらも碌に交わさなかったが。定時には帰ったのだったか、どうだったか。しかし時計を見れば時間も時間。こんな時間までまさか二階で家具磨きに没頭している訳ではあるまい。恐らく俺が気付いていなかっただけで、あいつは勝手に帰ったようだ。
何となく、一言ぐらい、事務所の雑事を一手に引き受け残業している相棒に掛ける言葉は無かったのか、とか。相手はあのギギナなのだから、そんなことを言っても無駄だと解っていても、僅かに不満を募らせる。
「こっちは徹夜だってのー。馬鹿ギギナー」
誰に聞かせるとも無く呟いて、簡易キッチンの小さな冷蔵庫のドアを開ける。ひんやりとした冷気の中、目当てのものを見つけて口角を上に向ける。
「こんなに月が綺麗なのに、一献傾けず何をする、ってな」
程よく冷えた酒瓶とグラスとを抱え、窓際に椅子を引っ張っていって、白く光る月を鑑賞しながら、酒盃を掲げる。
ギギナには、酒に溺れるしかない軟弱者が、また無理矢理に理由をつけて、結局酒が飲みたいだけではないか、とか。リアルに言われそうなことが想像できてしまって、俺は思わず顔を顰める。こんなときぐらいは、あいつのことは忘れたい。
「…いや、」
こんな一人の夜だからこそ、あいつのことを考えてしまう、…のだ。癪に障らんでもないが、仕方ないと諦めのため息を吐いて、杯を傾け、咽喉に心地よい液体の痺れるような感触を楽しみながら、ぼんやりとあの銀の瞳を思い出す。
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首筋に奴の銀糸の髪がかかって、くすぐったくも複雑な感情に支配された。
肩の辺りに吐息を感じて、離れろ、と短く言うと、前に回された両腕に力が込められた。
どうあっても離れそうにない様子にため息を吐いて、そのまま仕事を続ける。
(俺は、)
「…ギギナ、俺は、お前が触れてもいいような、そんな正しい、綺麗な人間じゃないよ」
呟くように零せば、体を離さないままにギギナが頭を上げて俺の顔を覗き込む。
何をくだらないことを言う、と、真顔で、心の底からそう思っているように、そのときギギナは言った。
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(だけど俺の思いは変わらない。)
誇り高く美しいギギナ。
俺はそんなギギナを尊敬し憧れ、隣にいる。悪態をつきながらも、自ら離れようとは思わない。それがたとえ、どんなに愚かで醜い行為だとしても。
だけど、ギギナをも汚してしまうのは、それだけは耐えられない。
ギギナがこの体に触れるたびに、愛していると囁くたびに、貫かれるような絶望に目の前が真っ暗になる。
ギギナを、汚してしまいそうで怖いんだ。
触れたいのに触れられない、だとか、そんな感情は自分のものだから抑えられる。ギギナを汚してしまう暗闇に比べたら、そんなものなんでもない、と。
――嗚呼、だけど。
当のギギナがそれを拒もうとしないんだ。やめろと叫んでも離れろと睨んでも、まるでわかっていないような表情を浮かべ、無言で唯傍にいる。
それが、どれだけの悲哀で、幸福か。
この慕情は、ギギナを裏切る感情でしかないのに。俺は相棒として、ギギナの隣に立っていなきゃならないのに。
そんな思いのすべてを閉じ込めるように。
含んだ酒の味は酷く苦かった。
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『もう何も 要りませぬ』
(唯、嗚呼どうか、貴方だけは)
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