酷くうつくしい蒼い蒼いガラス球のような目をして、梳けば溶けるように指の間を通る赤茶の髪をして、陽に当たれば透明に輝く頬をして、神経質そうな細い造りの手首と指先をして、ガユスはギギナを視る。そうして、、、うっとりと笑うのだ。それはそれは無邪気に。仔猫のように。
如何してこんな所に隠れ家用の物件を求める事にしたのか、ギギナは覚えていない。ギギナが覚えていないのなら、其れはそのままだった。
ギギナが今まで利用したことの無かった其の建物は、傾いていてギギナが歩くと床がぎしぎしと鳴る。
二階建ての、小ぢんまりとした。
錆びた色も所々晒している階段をなるべく音を立てないように上って、幾重にも取り付けた鍵を一つ一つ丁寧に外してゆく。事務所の其れよりも、数の多い其れを。
一階には誰もいない。街外れの半廃墟になど、誰も興味を抱かない。犯罪者やら其の部類の者供が一夜の宿や隠れ場所として利用しようとする事もままあったが、其の度にギギナは彼らを追い払っている。何時しか其の建物周辺にはギギナ以外に寄り付く影も無い。
長い時間かかって開錠し終えたギギナは、中の様子を遠巻きに伺うようにそっと扉を開けた。音を立てないように。静かに。猫のような足取りで。
大きな窓がヒトツと、白い寝台がヒトツ。差し込んだ朝日が、嘘のように溶けてしまいそうな柔らかな陽だまりを部屋に落としていた。寝台の上にぺたんと座って、窓枠に腕を組み顎を乗せて外を眺めているガユスは、、、少し痛んだ赤色をした髪を同様に朝日に溶かしていた。ギギナが来たことに気付いていないのか、それとも気付いていながらも無視しているのかはギギナには分からない。ガユス、と柔らかな声で呼びかけても、ガユスはギギナのことなど見向きもしない。初めて世界を見たかのようなきらきらとした瞳で、世界を見ていた。
ギギナは何も云わないで、ガユスの見ている風景に目を向ける。唯唯単純に、何処までも綺麗だった。
暫くそうしていたが、ふと目をやるとガユスが飽きてしまったかのように窓枠を指でなぞっているのに気付いた。其れを視たギギナは、その手を優しく取って、薄い手の甲に唇を落とす。是は呪い。ガユスがいつまでも、ギギナだけの物であるようにと、そんな鎖のような。静かに、想いを込めた。
ガユスはそれも唯、曇りの無い瞳で見ていた。顔を上げたギギナに単純に見惚れて、そして微笑む。何も知らない無垢なまま。さっきまで見ていた世界のことも何もかも、忘れて。
▲ ▼
ガユスが医者の手から離れて三ヶ月が経った。
思考する力も、是までの事も、ギギナも。なにもかもをガユスは手放した。
事務所でいつものような日を過ごしていたはずなのに、急にガユスだけが止まってしまった。呼びかけても何も反応せず、懇々と眠り続けるガユスをギギナが医者へと連れて行くと、医者は唸るなり考え込んでしまった。ギギナに向き直ると、医者特有の、深刻な表情を向けた。激しい戦闘の連続における極度のストレスがどうとか。それに伴う感情の揺れがどうとか。とにかく、もうこのまま戻ることは無いと言われた。
永い眠りの後目覚めたガユスは、言葉を失くす代わりに、ぞっとするほど真っ白な笑みをギギナに向けた。後は流れるまま、「ガユス」が戻ってくることは無い。
病院に居ても何処に居ても同じならば、ギギナの手がすぐに届くところが好い。そう考えたギギナが見つけたのが此処で、それからギギナはずっと時間を見つけては此処へ通っている。
「ガユス」
呼んで、手を伸ばすと嫌がることもなく素直に頭をギギナの肩に預けて凭れ掛かってくる。髪を梳いてやると、擽ったそうに首を僅かに竦めた。
「…ずっと貴様をどこかに閉じ込めていようと思っていた。是はそんな私に対する貴様のあてつけなのか?」
答える声が無いことを知りながら、否、答える声が無いからこそのギギナの独り言。自分に向けられた言葉だと理解しているのか、ガユスはギギナを見上げる。ギギナは其れを視て目を眇める。
「ガユス」、を。
取り戻したいと、自分すら忘れてしまった今のガユスを、引き裂いてしまおうと考えた事もあった。ガユスの瞳を見た今でも、胸の裏側で燻るその願望。ガユスにとって、是までの記憶が唯単にガユスを傷つけ続けるものでしかないと、其れも知っていたけども。…「ガユス」だって、其れは理解していたはずなのに。
(ああ…)
「追い詰めたのは、私か?」
供に背負って、歩いていくのだと思っていた。互いに罵りながら、嘘を吐きながら。いつも隣に在るように、と。
(私か?)
(だとしたら、だとしたら。――なんて滑稽な。)
其れこそ最高のあてつけで、嫌がらせで、反撃だ。
「…ガユス」
(酷くうつくしい蒼い蒼いガラス球のような目をして、梳けば溶けるように指の間を通る赤茶の髪をして、陽に当たれば透明に輝く頬をして、神経質そうな細い造りの手首と指先をして、ガユスはギギナを視る。そうして、、、うっとりと笑うのだ。それはそれは無邪気に。仔猫のように。)
「 」が、口元に歪んだ笑みを浮かべたギギナを不思議そうに視ている。
視線を受けて、ギギナは現実に帰還する。「 」その名を、酷く優しい声で呼ばわって。呼ばれた「 」は、やはり酷く嬉しそうに微笑う。ギギナの見たことの無い顔で。ギギナは苦笑して、顔を寄せてその頬に軽くキスをする。一度離れて、きょとんとしている「 」をひたと見据えて、今度はその唇に。
静かに、ギギナは離れる。何をしているのか、と、自嘲よりも己の行動の、その突飛さに呆れとそして虚しさを感じて、、、それでも伏せていた睫を上げて「 」を視る。其処に在ったのは、酷く傷ついたような「 」の表情だった。
「…… ?」
問い掛けると、蒼い瞳を揺らして、ふいとギギナから視線を逸らす。
はっとした。あれは、あの表情は、
( )
いつまでも、「 」を閉じ込めておこうと思った。惑わすものは他になく、こころが焼けるような思いももうしなくとも好い、ギギナの腕の中で。壊れた「 」を閉じ込めておこうと。そうすればもう、これ以上は傷つかない崩れない。そう思っていた。
なのに、唯一此の世界の中で、「 」にとって安全であるギギナの腕の中で、そんな表情をする。其れを浮かべていたのは、今の「 」では、なくて、
「…私は、また貴様を追い詰めようとしている、の か ?」
問う。しかし端から答えなど期待していない、呟きにも似た。
どうすればいい?どうすれば。己の為だけを考えて、ここに「 」を閉じ込めたのは、確かだ。けれども、こんな、こんな。
(気に入りの椅子は、この隠れ家に置きっぱなしにして久しい。そうすれば、此処は自分のすきなものだけになるだろうから、と。)
「 …、」
いつから自分はこんなにも弱くなってしまったのだ。「 」が壊れた、その瞬間に「 」を棄ててしまえば強いままで居られたのだろうか?――けれど、己は、もう強さだけを至上のものとして扱わない。扱っていない。「 」が壊れた時から。否、「 」が壊れる前からも。ずっとずっと、その隣に在ってきた。弱い、よわい「 」。その隣に。
弱さなど嫌悪するべきものだ。唾棄すべき、内なる敵。それを大事そうに抱き続ける「 」に、心底嫌気が差していた。弱さ故に傷つき傷つける様を、愚かだと何度罵って忠告しても聞き入れはしなかった。
だからこそ、ギギナは壊れた「 」を手放さずギギナの許へと繋いでおいた。強くなる事も無いが、これ以上弱くなることも無い。傷つかずに済むギギナの腕の中で。違う、それでも「 」は先刻のような顔をする。ギギナの腕の中で、今までと同じように傷ついた顔を。
(知ってしまった)
(知ってしまったのだ、私は)
「 ……」
呟いた名が己を示すものだと判断して、「 」はギギナの顔をまた覗き込む。にっこりと、何も知らない笑みを湛えて。
(070625)
|